映像の世紀⑥

・『映像の世紀 第6集「独立の旗の下に 祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ」』
第二次世界大戦で解放の機運。と、いうわけでちょっと遡るカンジ。
→インド門を通る、ジョージ5世(1911)。
南アフリカで、弁護士をしていたガンジー。有色人種への差別ありあり。
→仏領インドシナ、が現在の“ベトナムラオスカンボジア”にあたることを理解してないと、インドネシアかどっかと間違えちゃうな。
ベトナム人が令状なしに逮捕され、裁判なしに投獄されていた頃。
→パリの新聞「ル・パリヤ」に第一次世界大戦へ参加するベトナム人が、搾取されてるとの記事。それを書いたグェン・アイコック(のちのホー・チ・ミン)。
→上海の租界(イギリス租界、フランス租界、など)。東洋のパリ。
コミンテルンに参加するホー・チ・ミン(1925)。秘密工作員に。
孫文主導の軍官学校。校長は蒋介石。政治部主任は周恩来。入学試験の面接官に毛沢東。この頃中国4億人。三民主義の校歌が、のちに台湾の国家に。ホー・チ・ミンがこの軍官学校に送り込むインドシナの若者たち。
南アフリカから帰国するガンジー(1915)。“偉大な魂、マハトマ”。当時45歳!?60歳くらいに見える。ヒンズー教イスラム教をまとめるために、糸車を引っ張り出してきたのか。イギリスへの抵抗をこめて、国民は糸を紡ぐ。国旗の色も「ヒンズー、イスラム、その他」の宗教。さらに“塩”を海へ取りに行く「塩の行進」も、イギリスへの抵抗なのかー。
→齢59にしてガンで死ぬ孫文(1925)。若い。「現在、革命なお未だ成らず」。そして跡を継ぎ、共産党を目の敵にし始める、蒋介石。まさか国民党の面々、100年後に共産党がこんなにも一党独裁体制を敷いてるとは思うまい。
→1931年、ガンジーと会見したチャップリン。国際会議の映像は…ない。ガンジーに対し、インドが英連邦の傘下である、という姿勢を崩さないマクドナルド首相。ガンジーを相手にせず、帰国後に逮捕。えげつねえ。
→日本に来た溥儀(1935)。
→1930年代から、共産党毛沢東は不動の地位。共産党の、延安での自給自足が、日本赤軍が時代錯誤の山籠もりに向かわせた可能性もあるな。日中戦争に対する、毛沢東が日本の疲弊を見越していた論文がほぼ完璧。その通りに日本が大敗北したしな。
インドネシアの指導者、スカルノデヴィ夫人の夫か?日本軍にインドネシア兵を鍛えてもらえる、と大いに利用していた模様。
→洞窟で日本軍を見つめるホー・チ・ミン(1941)。ゲリラ戦術を若者に。独立の機会を伺う。こんだけホー・チ・ミンにフランスも日本も恨まれて、未だに親日だと思い込んでる我々おめでたいな。
→戦後にホー・チ・ミンが独立宣言するも、再び立ちはだかるフランス。
→インド。ガンジーが表舞台から消えている頃、立ち上がるネルーヒンズー教指導者)。対立するジンナー(イスラム教指導者)。
→中国。1946年に内戦(共産党×国民党)勃発。→1946、ホー・チ・ミンのフランスとの独立交渉。ガンジーもイギリスにけちょんけちょんにされてきたし、どうなる?
→やっぱ交渉決裂。で、1946年11月、インドシナ戦争勃発(フランス×ベトナム)。ベトナム、ボロ負けじゃん。
インドネシア北朝鮮、韓国、カンボジア…次々と独立。
→1947年、インド・カシミール地方。「ヒンズー教×イスラム教」の暴動。暴動を鎮圧できず、イギリスがインドから撤退するとか、どんな皮肉だよ。で、両派の調停役のガンジー再登場。宗教融和より、国を分割したほうが早いのでは?多様性からは離れるけど。
→あ、それでこうなった(1947年8月14日、パキスタン独立)のか。首班はジンナー。翌日(8月15日)、インド独立。首相はネルーガンジーの悲願は、達成されなかったんだね…。
→1948年1月30日、ガンジー暗殺。なんで融和を解く人間が、ヒンズー教徒に裏切り者扱いされんねん。
→1949年中国。共産党が勝った。それはそうと、アメリカは国民党への援助をなぜ打ち切ったの?
ベトナム、8年目の戦争。ベトミンは中国から武器買ってたんか。フランスにはアメリカが協力。共産化されたくないもんね。
→…?ベトミン勝ったの??そっか、勝ったからこそアメリカが来たのか!ディエンビエンフー、今は平和なのになあ。



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