映像の世紀⑩

・『映像の世紀 第10集「民族の悲劇果てしなく〜絶え間ない戦火、さまよう民の慟哭があった〜」』
→時は遡る。
ユーゴスラビアの内戦、1991年からだったか〜。あれから30年。早いもんだな…。世界情勢なんて、全く気にしてなかった。
→ベルギー難民は初耳だな。
第一次世界大戦の集結、1918年11月11日。ポッキーの日
アルメニア難民(1918)。オスマン・トルコから逃れるキリスト教徒たち。
バクー油田、当時世界の半分もの供給してたの?そりゃイギリスも欲しがる。
→ロシア難民(1921)。ロシア帝国、300年続いてたんやね…。革命後も続く内線、共産党の農業政策の失敗。寒波で餓死の危機に。
→フリチョフ・ナンセン、難民の父。初代の難民高等弁務官。彼が見た、地獄。ロシア革命からわずか5年(〜1922年)で、飢えと寒さで死んだロシア難民は900万人…。
→しかし、もう2022年になろうとする現在、そのロシアの大統領が、ベラルーシ大統領へ協力して、難民をある種の“爆弾”としてポーランドに送り込んでいるという噂が流れる…100年前にロシア難民の受け入れを拒否した欧米諸国の態度は、“間違っている”はずだったのに…。
→「1国家1国民」を標榜するナチスドイツが生まれるわけだよ。ロシアと組んだドイツにより、(第二次世界大戦開始でもある)ポーランド侵攻で追われる、ポーランド難民。4,000kmの旅路でイラクへ。
→奪った領土に、欧州各地のドイツ人を呼び戻して住まわせるヒトラー。御恩と奉公じゃあるまいし。
→かたやスターリンソ連共産党をピラミッドの頂点とする、多民族国家を目指す。でも逆らったら強制収容所行き。ぎゃふん。
→ドイツ兵に金品を没収されるユダヤ人の映像。最悪だよ、本当に。
→で、パレスチナに逃れるユダヤ人。1920年代、国家を持たない2つの民族(アラブ民族とユダヤ民族)の共存が、このユダヤ難民の流入エルサレムが揺れる。間をとりもって統治していたのは、進駐したイギリス、だが…。
※アラブ民族にとってはイスラム教の聖地、そしてユダヤ民族にとってはユダヤ教発祥の地、エルサレム
1921年に、エルサレムチャーチル来てたのか(植民地大臣として)。この時は2民族の調和を約束してたんだがな。結局ヒトラーの政策のあおりで、イギリスが両民族の暴動を鎮圧したり、ユダヤ人の入植を制限したり…。
→他方、ユーゴスラビア内で燃えさかる、セルビア人とクロアチア人の争い。国王アレキサンドル1世の、セルビア独裁主義(1930年代)。アレキサンドル、フランス訪問時に、暗殺(1934)さる。
→パバリッチ将軍(反セルビア主義)、ナチス・ドイツを後ろ盾にクロアチア独立を宣言(1941)し、政権の座に。ここにもヒトラーの影が。
→ユーゴ解体を望まないセルビアは、独立を認めない…と。でも、なんで解体されちゃマズいの?別に仲悪いのに無理に一緒にする必要ないと思うんだけど…。それで戦争して人が死ぬ方がアカン気がするんだけど、一体私に見えない何が彼らに見えているの??
→ドイツと近密になるクロアチア。軍事同盟を傘に、セルビア人狩りを…。迫害され、ヤセノバツ収容所(ドイツのユダヤ絶滅収容所を模した)に送られるセルビア人。どうなってんだよもう。
→「(虐殺の)この映像はのちのチトー政権下でも封印され続け、今から5年前(1991)に初めて公開されました」。いかにチトーといえど、都合が悪かったのだろうか?
→大戦終結、チトーが再統一。クロアチアの独立を取り消す。
終戦で、朝鮮から吐き出された日本人とか、インドの分離独立で追い出された1500万人の難民とか、ドイツ人の引き上げ民1300万人とか、大戦前後の(短期間での)人間の移動、想像を超えてきてる。
→20万人のユダヤ人が、アルプスを超えて、徒歩でパレスチナへ…!流入を制限するイギリス、全く防ぎきれてない。
→イギリス、ユダヤ難民をヨーロッパに強制送還してたの??そこまでの苦労を考えたら、泣くしかないわな。そしてテロ(イギリスに対し)起こすわな。
→1947年、イギリス、パレスチナ問題の調停を放棄。あーあーあー。…って、どーすんの?
→で、国連でパレスチナ分割案を決議すんのか。にしても、「賛成33」「反対13」は分かるけど「棄権10」ってなんの意味あんの??
→1948年5月、イスラエル建国。「建国の父」、初代首相ベングリオン
→なるほど。それで不満なアラブ民族が中東戦争(第一次)を…。1949年、イスラエル勝利。追放された70万人のアラブ人が「パレスチナ難民」と呼ばれるのね…よき隣人、だったのに…なんでこんなことに…。
→1953年3月、スターリン死去。で、なんでこっから東欧諸国に、反ソ連運動が高まるのん??
→1956年10月、「ハンガリー動乱」。ソ連共産党一党独裁からの脱却。暴動でなく市民革命。11月、ソ連軍の介入で革命失敗。オーストリア経由で西側へ向かう、ハンガリー難民。ソ連軍は彼らの射殺を命じられてるため、なんとか逃げ道を伝えるオーストリアの国境警備の面々。生々しい。
→からのベルリンの壁(1961)。

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→からのアメリカ軍の北爆(ベトナム、1968)。カンボジア侵攻でベトナム戦争インドシナ戦争に拡大(1970年4月)。
※こっち⇩のインドシナ戦争(1946)とは違うようだ

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→え。シアヌーク国王の外遊中にクーデター(アメリカ支援)起きてたの?(1970年3月、ロン・ノル政権)。シアヌーク共産主義の手先扱い。権力闘争って…。
→ホントに組んでるシアヌーク。亡命先の中国を通じ、カンボジアの共産勢力と。そしてクメール・ルージュ。サロト・サル(ポル・ポト!)と出会う。
カンボジア内戦(1970年勃発、こっから5年)。政府軍(アメリカ支援)vsクメール・ルージュプノンペン陥落(1975年4月)はクメール・ルージュが勝利…だが。3年後、無人の街プノンペンに。なぜ?
ポル・ポト、全ての子どもを親から引き離し、労働を課す…なにこの残酷な洗脳。
→ん?1978年12月、ベトナム軍が「ポル・ポト追放」として、カンボジアに侵攻。なんでそんな必要が???
ソ連ベトナム支援)vs中国(カンボジア支援)の代理戦争なのか。そして明るみに出るポル・ポトによる虐殺。人口の3分の1も殺したの?ナチスドイツからなんも学んでねーな!
カンボジア難民て、このベトナムとの戦いで発生したのか…。
→えーと、冷戦はなにをキッカケに終結したの?そこから30年、人類はホントに成長しねーな…。

https://chikirin.hatenablog.com/entry/20160820



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