2月24日の視聴
産む≠育てる
・『映画「チア☆ダン」』
→笑顔笑顔笑顔って…プリキュアかい!とツッコんで終わるのがいつものところですが。本日は…
以下をご覧ください。
◆
構成がどうとか、映画としての評価は別として、気になったシーンがある。
…
チームに一人、ぽっちゃりさん(女子。『3年A組』にも出演してる?)がいて。母子家庭で育児放棄気味の母あり、という設定。
彼女の家に訪れたチアダンメンバーに対し、母親が悪態をつく。家の中はぐちゃぐちゃで、弟妹たちが騒いでいる。そんな中、彼女は母親に叫ぶのだ。
「ワタシの友達を悪く言うな!ていうか母親なら生んだ責任をとれ!」
嫌な気持ちになった。
…
母親でなく、ぽっちゃりさんの方に。
◆◆
私は、
産んだ時点で責任は終了している
と思っています。
「育てる」ことまで責任(義務)としてしまうと、「望んでいる妊娠だけど育てる自信も環境も整わないから」と
中絶したり
トイレに出産して遺棄したり
出産してすぐ殺したり
と、最悪の事態に陥る。
◆◆◆
ただただ「産んでみたい」という方もいる。でも、産んだあとに、育てる過程で「なんか違うな」と思い始めた保護者はどうすればいいのか。
植え付けられた“産みの親幻想”が、育児(子育て)ノイローゼを誘発する。そして「望んで産んで育ててきたけれど、育てる自信も環境も整えられないから」と
虐待のあげく「しつけのつもり」と殺してしまったり
子供四人もろとも練炭自殺を図ったり
中学生にもなる娘を貧困を苦に絞殺したり
と、最悪のパターンになる。
◆◆◆◆
で?
誰にとって最悪なの?
勘違いしないでほしいのですが…。
私は中絶や虐待や殺人をする「個人」を責めているのではありません。法に触れる、触れないのハナシをしているわけでもありません(だから、中絶は合法でOKだけど殺人は違法だからバツ、といった議論はしてない)。
子供を産むことに関し、「個人」と「国家」のどちらが優先されるかといえば、もちろん「個人」です。国のために子供を産むわけじゃありません。
しかし、“日本”は人口を必要としている様子(その割に移民政策には消極的だが…)。ならば、“少子化対策”と称した「家庭に金をばらまいて、産みの親に育てるのを丸投げ」するよりも、
産んだ後、育てられなくなっても、国が全力であなたの子供を育てます!
って言ってくれればいい。困っているのは「国家」なのだから。
つながりつながり。