朝は遷る

7月11日の視聴

・『NHK高校講座 世界史「アジアの独立」』
→18世紀からインドの植民地化を進めたイギリス。19世紀には、1877年「イギリス領インド帝国」として、総督府を置き直接支配。このへんの経緯は『世界史「ムガル帝国からインド帝国へ」』⇩にて。

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→3億人のインド人民衆を、たかが6万人のイギリス人官僚が統治。もちろん、インド人エリートの育成が急務!この辺が日本と違うんだよな。意地でも自国民のみで支配するってんでなく、相手の言語を奪うでもなく、“教育する”ことで被支配層に特権階級を作る。そうすると、そのエリートが、特権階級を維持したくて勝手にその下層民をどうにかしてくれる…カンジ。
→1885年、インド国民会議の設立。なにそれ?イギリス人とインド人エリート?なにするん?
→元々はインドからイギリス人への、ただの諮問機関なのか。ところがイギリス人の年金支給分をインドに支払わせることへの不満から、この国民会議が民族運動の中心に!国民会議派
→1905年、イギリスはベンガル分割令、を布告。なにそれ。なんで?
→ほほう。エゲツねえなイギリス。民族運動激しいベンガル地方バングラデシュのあたり)を、ヒンドゥー教地域(西側)とムスリム地域(東側)に分割し。民族運動の弱体化を図ったのか。
→怒る国民会議派ヒンドゥー教多し)。それに対し“全インド・ムスリム連盟”を結成(1906)させ、対決させようとするイギリス。卑怯なり!
→分割は取り消されたが、ヒンドゥー教ムスリムの対立のみ残る。ひでぇなイギリス。
→元々、団結して独立されるのがイヤだから、そこここで“divide and rule(分割統治)”かますイギリス。イギリス以外の国も、この分割統治の手法は使っていたのかな?
→1911年、民族運動の拠点カルカッタから、デリーへ首都を移転。第一次世界大戦に150万人ものインド兵を動員(戦後に自治を認める、と)。
→しかし蓋を開ければ戦後、地方行政の一部しか許さず。むしろローラット法(1919年)で弾圧。逮捕状なしの逮捕、裁判なしの投獄。汚え!汚えよイギリス!!
→しまいには、ローラット法への反対集会を軍で虐殺。女性も子供も…。「アムリットサール虐殺事件」(1919)。
→登場するガンディー(1869-1948)。南アフリカで20年の弁護士生活。1915年に帰国して国民会議派へ。紡ぎ車は、イギリスの機械織りへの対抗意識の現れ。
ヒンドゥー教徒のガンディー、ジンナー(全インド・ムスリム連盟、1876-1948)との協調。“ひとつのインド”を目指す。彼の運動は『映像の世紀』⇩でも。

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→?非暴力・不服従運動に加わった農民が、警察官を殺害した(1922)だけで、運動停止するガンディー(1922)。停滞する独立。マジメすぎん?
→そして始まる、塩を作る行進、70人(1930年)。アーメダバードから、ダンディー海岸までの380km。徐々に増える行列。数千人になる“塩の行進”。逮捕者続出(イギリスの専売への抗議にて)。承知の、ガンディーのメディア戦略。
→そんな最中の第二次世界大戦。巻き込まれるインド。参戦宣言するインド総督府。反対するガンディーとネルー(1889-1964)。イギリスを指示してしまうジンナー…。その目的は、戦後のムスリム国家建国。1940年、ジンナーが「パキスタン建国」の目標を宣言。そっか、ここでパキスタンが…。袂を分つガンディーとジンナー。
→戦後疲弊したイギリス。1947年、イギリスはインドの統治権を手放す。…とはいえさ。独立戦争しかけられたわけでもなく、国力の疲弊で手放すもんなの?なんか解せない。
ネルーとジンナーの溝、埋まらず。1947年、ムスリムの国パキスタン、建国。西側は今のパキスタンなんだけど…今のバングラデシュも東パキスタンとして成立してたのかな、これ?飛び地のパキスタン。そうすると、バングラデシュはいつ独立した?
※1971年です
→それぞれ、ムスリムヒンドゥーかでパキスタンとインドに移動する国民たち。移動の最中の衝突で、数十万人の死者が。
→融和を提唱するガンディーを、ムスリム寄りとしてヒンドゥーの青年が暗殺。ひとつのインドには、ならず。
→…それでも。アメリカの公民権運動や、南アフリカアパルトヘイト廃止に、意味はあったと。
→続々独立するアジア各国。オランダと戦争して独立するインドネシア(1947)。フランスとのインドシナ戦争ののち独立するベトナム(1954)。ビルマ(現ミャンマー、1948)やマレーシア(1963)も独立。フィリピン(1946)はどこからだっけ?
アメリカ。第二次世界大戦時はしばらく、日本にも占領されていた。19世紀末にはスペインから一度独立している。
→ん?最後の地図、インドネシアの独立、1949年になってるけど、どういうこと?1947年じゃないの?

・『NHK高校講座 世界史「西アジア・中東の新展開」』
→7世紀〜11世紀の西アジア・中東。
→7世紀初め、アラビア半島に誕生したイスラームイスラム教)。今や18億人もの信者(ムスリム)が。
→指導者カリム(名前じゃないよ)を中心に、中央アジアからイベリア半島まで席巻。てか、スペイン・ポルトガルもヤラれてたんか。
→アラブ人の王朝だったところに、イラン人・トルコ人が参入。そんな巨大勢力。
→商人をしていたムハンマド。隊商貿易。
→40歳を超えて預言者になっていくムハンマド。やっぱ迫害されんねや。メディナで作る共同体、ウンマ
→630年、メッカを征服するムハンマド。偶像を撤去してカーバ神殿アラビア半島統一。
→予言者でなく、“預言者”。ただの人なので、崇拝すべきでない、と。
→当時の豚は衛生面で良くなかったんか。じゃあ、今は別に食べても良くない?
ムハンマドの死後、後継となるアブー・バクル。新たなカリフに!以降、選挙で選ばれたカリフでアリーまで。正統カリフ時代(632〜661年)。それにしても、宗教団体の長が、なんでムスリムの軍を派遣すんねん。
→651年、ササン朝を滅ぼしてイラン・イラク地域を征服。ビザンツ帝国からもシリア・エジプトを奪取。…えっと…そもそもササン朝はどういう王朝なん?そこを滅ぼすのは、肯定していいわけ?で、ビザンツ帝国がどういう存在で、なんで領土を奪うことに???
→支配領域の拡大とともに、カリフを巡って争いが。第4代カリフのアリーは暗殺。661年、対立していたウマイヤ家が“ウマイヤ朝”樹立。シリアのダマスカスを都に。ウマイヤ家がカリフを世襲。アラブ人ムスリムが支配者である政権に。
ウマイヤ朝(661〜750年)、8世紀初めに、東は「中央アジア」「北インド」、西は北アフリカの地中海沿岸およびイベリア半島も征服。これか、冒頭のハナシは。
ユダヤ教徒キリスト教徒は、ジズヤ(人頭税)とハラージュ(土地税)が無いとキツそう。逆にそれがあると信仰の自由が。
→『世界史「ムガル帝国からインド帝国へ」』⇩は、人頭税の記述からも、

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…上の「アジアの独立」より前で、今回の「西アジア・中東の新展開」より後、てトコか?
イスラームの共存能力高いな。お金払えば信仰の自由は保証されるんでしょ?
→へ?被征服者(イラン人やトルコ人などの非アラブ人)、イスラームに改宗しても税支払わされるの???
→と、いうわけでウマイヤ朝への反体制運動勃発。徴税への不満、アリーの支持者がムハンマドの叔父の子孫を擁立して、ウマイヤ朝打倒(750年)!これがアッバース朝
チグリス川のほとりに、首都バグダード建設(762年)。最盛期、世界最大規模の都に。解消される、ムスリム同士の不平等。繁栄を支える、4つの幹線ルート。
→9世紀。アッバース朝の親衛隊、騎馬戦士のトルコ人(でも奴隷)。マムルーク(奴隷軍人)というエリート軍人に。奴隷、と呼ばれてもエリート?
→10世紀。東側から来るブワイフ朝イラン系、軍事政権)。アッバース朝のカリフを保護下(なにそれ?)に置き、カリフの委任を受け統治。え?いつの間にそんな政権誕生したの?なんならさらに東にサーマーン朝(イラン系)もあるし。西側のファーティマ朝も何?…とりあえずアッバース朝は終了(滅亡ではない?)。
→11世紀。トルコ系騎馬遊牧民が、中央アジアから西アジアへ。セルジューク朝(1038〜1194)樹立。ブワイフ朝を倒し、保護下のアッバース朝カリフ(まだいたんかい!)から“スルタン”の称号を手に入れた!
→なるほど。セルジューク朝(軍事政権)がアッバース朝を滅亡まではさせないの、“カリフ”すなわち信徒の長だからか。これは、鎌倉時代以降も幕府(いわばスルタン)がどんなに武力を蓄えても、朝廷(いわばカリフ)を蔑ろに出来ない構図に似てるな。宗教的権威(カリフ)と、政治的・軍事的リーダー(スルタン)、という。



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